デザインの罪
今日、雑誌や絵本が置いてある小洒落たカフェでランチしていてふと目に留まったのがCasaの柳宗理特集(2003年)。一人暮らしの妄想をもくもくと頭の上の描きながら、ケトルや鍋やボウルやカラトリーを眺めてました。その昔、インダストリアルデザイナーの柳宗理の名前を初めて聞いたのは姉からでした。一緒に行った雑貨屋に柳宗理のキッチン用品があったのです。シンプルで、機能的、そして錆びないデザイン。古いのではなく、変わらない美しさに機能性をもたせている。どんなにモダンで尖がったデザインよりもかっこいいスタイルです。
雑誌の冒頭はインタビュー記事だったのですが、その中で強く心に残ったのが「デザインの罪」についてのコメント。
「ゴミを作り出しているのはデザインの一番大きな罪といえるかもしれない」。
その通りかも・・・。時代遅れだなんだと、新しいものを追い求めて人は物を捨てる。普遍性のないデザインはやがて錆びて、みんな手を離したがる。しかし、本質的な美しさがあり、機能的なものであれば、誰もがずっと愛して使い続ける。それが優れたデザインなんだと思いました。柳宗理の車は50年前のジープ(インタビュー記事当時。)だそうです。これもまた、普遍的な美しさをもっているからこそ愛され、そしてゴミにならなかった実例。
ジャンルが違うかもしれませんが、最近の家電(特にテレビ、デジカメ、音楽プレーヤー、携帯など)は、数年で古臭い感じがしてしまう。技術の進歩と一体だから仕方ないのかな、と思いましたが、やっぱり基本的な部分で「使い捨てを前提」にしてるんだろうと思わざるを得ません。まぁ、そうしないと商売にならんという話は当然なのですが・・・。
ネットでいろいろ調べてたら、春に柳宗理の展覧会があったんですね。惜しい。行きたかったです。